 | 12/02/10 | 語りのある街 |
| 語りのある街(14)・・・愛宕、東京
<出世の石段の街、愛宕>
愛宕神社に上る石段は「出世の石段」と呼ばれています。
江戸時代、1624年から1644年の寛永のころ、「寛永三馬術」と言って、
三人の馬術の名人がいました。その中でも筆頭格が、曲木平九郎
(まがき・へいくろう)という武士 です。
愛宕神社の石段は、この曲垣平九郎(まがき・へいくろう)の故事に
ちなんで「出世の石段」と名づけられています。
お話は、次のように語られています。
時は1634年(寛永11年)正月、菩提寺である芝増上寺を参拝した将軍
家光公は、その帰途、愛宕山の下を通りかかりました。
折しも春。愛宕山には白赤の源平の梅が咲き誇っておりました。
家光公は、
“誰か、馬にてあの梅を取って参れ!”
と命じます。
しかし、この愛宕山の石段は男坂と呼ばれる八十六段の石段で、拝殿
までは、山の下から四十度という急勾配の石段です。
山上まで一直線に騎馬で登れ、という将軍の言葉に、従う大名、旗本
の面々は、互いに顔を見合すだけで、誰一人として名乗り出ようとし
ません。・・・
そのとき、この石段をパカッ、パカッ、パカッとのぼりはじめた者が
おりました。 家光公にはその者の顔に見覚えがありません。
“あの者は誰だ。”
近習(きんじゅう)の家臣にも知る者はありません。 ・・・
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 | 12/02/10 | 語りのある街 |
| <出世の石段の街、愛宕>
“おそれながら。”
と進み出たのは。讃岐国(さぬきのくに)の領主、生駒高俊でした。
“あの者は、わが藩の馬術師範曲垣平九郎(まがきへいくろう)と申す者
でございます。”
“そうか。この泰平の世に馬術の稽古怠りなきこと、まことにあっぱれ
である。”
石段を上って行った平九郎は、七合目あたりの所で馬の左目を扇子で
目隠しし、首筋を軽く叩き馬の気を鎮め、機を見て残る三十段程の
石段を「綾千鳥」という、石段をジグザグに登る方法をとりました。
平九郎は見事、山上の梅を手折り、馬にて石段を下ります。
この時、平九郎は、高い石段の上から下を見て馬が驚かないよう、
馬の目を左右交互に扇子で目隠しをするという手綱さばきを見せました。
そして、家光公に梅を献上したのです。・・・
平九郎は家光公より「日本一の馬術の名人」と讃えられ、その名は全国に
とどろいたと言います。
この故事にちなんで、愛宕神社正面の坂(男坂)は「出世の石段」と呼ば
れています。・・・
あなたも、この石段を上ってみませんか? ・・これからの人生のために!
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 | 12/02/02 | 語りのある街 |
| 語りのある街(13)・・・西ケ原、東京
<陸奥宗光の街、西ケ原>
北区、西ケ原は、陸奥宗光(むつむねみつ)の街。
陸奥 宗光(むつ むねみつ)は、日本外交の範(はん)をつくった人です。
明治維新後、日本の課題の第一は、江戸時代末期から明治初年にかけて
日本と欧米諸国との間で結ばれた不平等条約を対等なものに改正すること
にありました。
関税を自由に決められず、国内で外国人が起こした事件を裁くことができ
ないという不平等条約の改正。
多くの外務大臣が挫折する中、陸奥宗光(むつむねみつ)はイギリスと
交渉の末、不平等条約の改正を勝ち取ります。・・・
若き日の陸奥宗光は、1863年、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、
1867年には坂本龍馬(さかもとりょうま)の海援隊(かいえんたい)
に加わるなど、終始、坂本と行動をともにしました。
勝海舟と坂本の知遇(ちぐう)を得た陸奥は、その才幹を発揮し、坂本を
して
“(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけだ”
と言わしめるほどだったと言います。
陸奥もまた龍馬を
“その融通変化(ゆうずうへんか)の才に富める彼の右に出るものあら
ざりき。自由自在な人物、大空を翔る(かける)奔馬(ほんば)だ”
と絶賛(ぜっさん)しています。
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 | 12/02/02 | 語りのある街 |
| <陸奥宗光の街、西ケ原>
明治維新後は、陸奥宗光は、いろいろな官職を歴任しますが、薩長藩閥
(さっちょうはんばつ)政府の現状に憤激し、官を辞しました。この間、
1872年(明治5年)に蓮子(れんこ)夫人が亡くなり、1873年
(明治6年)に亮子(りょうこ)と結婚しています。
亮子(りょうこ)は、「鹿鳴館(ろくめいかん)の華」と呼ばれた美貌の
女性です。
彼女は、1856年、旗本・金田蔀(しとみ)の長女として江戸に生まれ
ました。しかし、1867年、11歳の時に江戸幕府が倒れたため、生活
環境は一変。
明治の初めに東京新橋・柏屋で「小鈴」という名の芸者となります。
「小鈴」は、幼いながら新橋で一、二を争う美貌の芸者でした。
花柳界に身を置きながら、男嫌いという評判もあり、身持ちも堅かった
といわれています。
ところで、10代前半から芸者をやっていた小鈴に転機が訪れます。
陸奥宗光との出会いです。
陸奥宗光は、1872年に、妻・蓮子(れんこ)を病気で亡くしました。
独身となった陸奥宗光は、「小鈴」と出会い、彼女に惹かれます。
そして、彼女を後妻として選んだのです。
「小鈴」は結婚して陸奥亮子(むつりょうこ)となりましたが、まだ
17歳の若妻でした。・・・
時代は明治の変革期。
まだまだ維新の不穏な空気さめやらぬ1877年(明治9年)。
西南戦争の真っただ中で、これに乗じて政府を転覆しようとした事件、
立志社の獄が起こります。
事件の関係者と連絡を取り合っていた陸奥も逮捕され、禁固5年の実刑
判決を受けることになったのです。
収監中、陸奥は亮子あてにひたすら手紙を書いて送りました。また、
自著を執筆したり、イギリスの哲学者ベンサムの著作の翻訳を手がけたり
して過ごしたといいます。監獄暮らしは5年に及びました。
(写真はLADY ネットショップ ザ・ケンムンへ)
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